俣彦の身の丈

テーマを特に設けず綴っていこうと思います。

僕の知っている阪神-最初に好きになった選手は-

お題「小説・物語などのノベル系(ご自由にどうぞ)」

 

生まれも育ちも愛知県。にもかかわらず阪神を応援している私。家族に阪神ファンがいるわけでもないのに、物心がついた時から阪神を応援している私。そんな私が最初に好きになった選手。それは……

 

福間納さん。

福間納

ロッテにドラフト1位で指名されるも結果を残すことが出来ず、わずか2年で阪神にトレードに出された福間さん(FA以前の当時はトレード=クビのイメージがありました。ましてや福間さんはドラフト1位。そんな選手が2年で出されてしまう。)は、移籍先の阪神で中継ぎ投手として活躍。昭和60年のリーグ優勝に貢献するのでありました。

 

今でこそ「ホールド」と言いましたタイトルにまで昇格した尺度や、「セットアッパー」と言いました先発と抑えの間を繋ぐ役目として重要視されている中継ぎ投手でありますが、当時はそのような扱われ方をされていたわけではなく。便利屋稼業とも言うべき地味な役回りを担っていた福間さんを当時6歳であった私が何故好きになったのか……。この齢になっても定かではないのでありますが。たぶんでありますが

 

(……よくテレビ中継に出ていたから。)

であったと思われます。なぜか?

私の暮らします東海地方でプロ野球中継となりますと、全国ネットの巨人戦と地元の中日戦。巨人は勿論のこと。中日もAクラスに顔を出す球団。であるのに対し、阪神は昭和39年以降、長い間優勝から遠ざかるばかりでなく、昭和57年のAクラス入りのご褒美として翌年の春のキャンプ地がハワイになるような球団でありましたので、

(……序盤から劣勢を強いられることが多かった。)

当時のテレビのプロ野球中継が始まるのは午後7時。試合が始まってから1時間。既に終わっている試合のスコアが映し出され、本来マウンドに立っているべき先発投手はダグアウトの奥に陣取る中、テレビ画面に登場するのが、試合を壊さないことを唯一の使命として目の前の打者と相対する福間納さんであった……。粘りに粘り。回を進めていく内に味方が逆転。勝利投手になりましたり、同点の場面でマウンドに上がるも……。時にはそのまま最後まで投げ切られセーブをあげられましたり。と、未だ分業化ならず。救援投手の役割をたんたんとこなされている姿に

(……当時6歳の私が、なぜ魅入られてしまったのか。が。)

(……未だに謎であります。)